教育ITソリューションEXPO!

みなさん、こんばんわ!

最近ボランティアをしてる時が一番楽しいと感じ始めています。
まずいなぁ、お金ないのに・・・

今日は、ALTERのメンバーから勧められた、大阪インデックス開催の教育ITソリューションEXPOに行ってきました。

その記事を書きたいと思います。

教育ITソリューションEXPOでは、テクノロジーを使った教育サービス・プロダクトのブースエリアと講演エリアに分けられていました。

感想としては・・・
講演◎
ブース×
って感じでしたね。

ブースでは様々なテクノロジーを使った教育関連のサービスが在りましたが、着眼点そこ!?というブースが多くて・・・どうも・・・ねぇ?()

一方で、講演は良かったです!
特に慶應の教授の安西雄一郎先生の「AI戦略と大学教育」は、「わかっている」人特有の「何回同じこと言わせるんだ・・もう最小限のことしか言わない」というウンザリ感が出ていて、逆に焦点絞った講義になり(笑)良かったです。

「EdTechが変える教育の未来」の佐藤正弘さんも良かったです!お元気なお方!

それぞれ45分講演なので、お二方ともスライドを超高速で回して、僕は「あわわ」って感じになりましたが笑

今日はちょっと(どころではない)不満があったブースエリアの感想を、書いていきたいと思います。


落胆の色

ブースを見てみて思ったのは、「これもうあるアプリで事足りるし、そっちの方が優れているじゃん」ていう感想でした。

例えば英語学習。はじめに行ったブースです。
ある会社さんは「発音」を矯正するアプリを開発したとのことでちょっとお試しさせて頂きました。リエゾンなど(英語の単語間の繋がる発音のこと)を矯正してくれるとのこと。

そのアプリは、はじめにネイティブスピーカーの音声を聞いて、そのあと自分が実際に英語を喋ってみて、点数が返ってくるというもの。どれだけ近似性があるかは周波数のグラフィで可視化される。そして使用者はその点数やら周波数やらをみて100点を目指して繰り返し発音するというもの。
フィードバックは、周波数と点数。

しかし、これでは明らかにフィードバックが弱すぎる。

感想を求められたので、担当者の方に直接言ったのですが、
「そもそもリエゾンは子音と母音が連続した場合など(例えばdで終わる単語の後にaがくれば、そこのリエゾンはダとなります)原因やパターンがあります。しかし、それを言語化したものがフィードバックとして返ってこない。」
「僕の発音がどう悪かったか言語化しないとそもそも直しようがないのでは?」
「しかも、リクルートさんのスタディサプリENGLISH(超有名なアプリで安価で既にこのようなリエゾンの説明もカバーされています。僕ならスタディアプリを使おうと思ってしまいます。」など、だいぶ慎重に丁寧(ここ重要)に感想を言いました。
「貴重なご意見有難うございます」とは言ってらっしゃいましたが・・・

なぜ?市場調査とかしていないのかな・・・とか思いながら、いきなりテンションはだだ下がりです。

プログラミングブースも、これブロゲート(プログラミング学習のアプリ、有名)より劣っていないか・・・なんで取り扱ってる言語がPythonだけなんだよ・・・

市場調査していないのかな・・・・とか思いながら、気を取り直して次の本命の場所へ


ミサイルを持て余す

次は、お目当の教具や遠隔授業・e-Learningブース。
自分のスクールに導入したいなぁと思っているので、ちょっとウキウキ。

しかし、

ん?これは・・・テクノロジーを使って何がしたいんだ?

というものばかりでした。

電子黒板などは、そもそも興味がなかったので(教師が授業しやすい教具というのはそもそも「学ぶ」主体である子どもの目線からの出発点でないので、興味がないのです)通り過ぎて
e-Learningの説明を受けました。

「ライブ授業もできますし、録画したものを見ることもできます。また、PDFを編集して自分で教材を編集してそれをクラウド上で共有できます。」
・・・・・うーん、それって10年以上前からやっていることなんじゃ・・・・
しかもzoomという無料アプリ(超有名)を使えばそもそもこの程度のことはできる
(実際に大学院では生徒間で学習に使っていました)。

率直に「zoomで事足りるんじゃないんですかね?」とお聞きしたところ、「そうですね。zoomで録音したものをこのアプリに乗っけて授業することができますね。」という返答。

・・・・・・・・いやいやいやいや!!

なんとも・・・・!
なんていうか、このサービスを使って本当に何を実現したいのか全く理解できませんでした。
他にも、先生が採点しやすいサービスとか学生証のデジタル化とか有りましたが・・・

感想としては、皆さんテクノロジーという強力な武器を持て余している、という感じがしました。

ミサイル持ちながら、ミサイルを手榴弾と同じ方法で投げようとしている感じ。
発射口を設置するという発想がない感じ。持て余している。

僕もテクノロジーに強いわけではないですが、絶対にその着地点に辿りはつかない。

 僕なら、子どもの勉強に対するモチベーション、知識の蓄積度、発想の傾向などを可視化してログ(記録)したいです。
 例えで言うなら、子どもの「学び」についてのプレイリストを作成します。ジャズが好きかロックが好きかクラシックが好きか。
それを観測することにより、個別最適化を狙います。


なんのための EdTech ?

なぜか。なぜこのようなことが起きるのか。

思うに、彼らは教育産業に、社会的課題を感じず、ビジネスチャンスとして参入してきているだけなのかなと。

既存の教育制度の問題が本質的にどこから生じているか、例えば学習において「教育」(教師側)か「学ぶ」(生徒側)かという主体性の問題をどう考えるかなどを「そもそも論」を意識していないと、学校のプラットフォームの枠を超えることや、子どもへのスコア教育への疑問等に辿り着けません。

テクノロジーが、採点しやすさとか電子黒板のプロダクトに向かってしまうのは、「義務教育の枠組みの中」でしか考えていないから出てくるのだと思います。

いやいや、そもそもなんでオープンソースになっている最先端の授業があるのに、教室等「狭い物理空間」で、「発達進捗は異なり、年齢だけが一緒の子が」「教師に属人的」に「教わる」ということになっているのか。

そこへリーチしているテクノロジー教具は全くなかったのが残念でなりません。

僕が前の記事で書いたシンギュラリティユニバーシティがこれを知ったら、日本のテクノロジー教育(EdTech)に酷く落胆するでしょう。

しかし、学びは有りました。

EdTechをちゃんと理解して活用しないといけない
ということです。というかそれしかいえない・・・

ブースエリアはこのような残念な結果となりましたが、

講演エリアでは2つ講演を聴講でき、いい刺激を受けました!

次は講座エリアのことを書きまーす!

ではでは!

発達特性の人特有の長〜い話しが 好き

バババババババン!

バババババン!

この前、一緒に遊んだ子供が言っていた「ギャク」です。

いや〜衝動性と多動性の塊の彼らと一緒にいるとこっちもテンション上がっちゃいますね〜

今日は、発達特性の人によくある、「要点を得ない長〜い話し」について書いていこうと
(「障害」という言葉は、僕はしっくりこないので今後は「特性」という形で表現させて頂きます)


話が長〜いからこそ、好きなんだ

発達特性の人はよく「話が長い」と言われることがあります。

僕も過去はそうでした。ただ、今は他の人の感じ方や意見をすごく知りたいので、話は簡潔に纏めています。

ただ、僕は「話が長い」ってことに全く悪い印象を持っていません。むしろ好き

「話が長い」は悪く言えば要点まとめろと言われます。

ただそれは「生産効率」が問題になる市場、会社での話のこと。

「話が長い」を良く言えばアウトプットの量が多いとも言えるのです。

そして、アウトプットの量はインプットの量に比例する。

語るべきことが多くあるというのは、それだけ五感を使って多くのことをインプットしたということ。

美術展で名画をみて「良かった」っていうことしかできない人はそもそもその名画を「見て」はいないのです。

1時間語れる人がしっかり「見て」インプットしているのです。

もちろん、同じ話を繰り返す、関係ない話にまで飛んでいってしまう、他の人の時間を圧迫する、というのは問題ですよ。そこは修正を試みるべきです。

だから、「話が長いこと」という「事象」自体、悪いことかなぁ? と思うのです。

僕はその人の膨大なアウトプット、好き

話が長〜いからこそ、好きなんだ

 

 

「教育」は果たして義務か?ー教育の下位要素としての「就学」

みなさん こんにちわ〜
事業を始めるってホント、「孤独」にならないかが重要だな〜と思うこの頃

僕はギリギリ社会との接点を「能動的に」作ってはいますが、時々ポッと

スケジュールが空いてしまうと「・・ど・・どうすればいいんだぜ・・・!?」

とモチベーションが落ちてしまい、一日中ベッドで何をすればいいのか考えながら苦しむ日があります。というかここ2日間そうでした!

やはり、自己って「他者」があってこそだと思いますね〜

さてさて、本日は「教育は義務か」 というメチャ根源的な問題を
超端的にまとめてみたいと思います〜

国家の持続性担保装置
国家において「教育は義務」というのは間違いではないと思います。
なぜなら、国家は持続するコミュニティであり、コミュニティは成員が持続的に入退出して成立するものだからである。
その持続的入退出性ともいうべきものの中には
コミュニティにおいて一定の質が担保された成員を創出、自己に帰属させることが必要条件となる。教育はその成員の「質」および国家に対する「帰属」的意識を醸成する上で不可欠である。
したがって、国家が教育を義務とするのは、それ自体の持続性を担保する装置という点で、正しい。
のが持論です。

「就学」は義務か
しかし、「就学」は義務ではない、というのも僕の持論です。
就学とは、学校に行くということですね。
なぜか。
答えは単純。国家の教育形態の中の一つ枝葉に過ぎないからです。
学校に行かなくても、他の教育プラットフォームがありそれが適切な形で個人に提供されていれば、前述したコミュニテイの成員の質及び国家に対する帰属意識は担保されます。
 
つまり、学校に行く「就学」は単なる教育の下位要素であり、かつ、必要条件でではないのです。

「不登校」という言葉は不要どころか、不適切なのである。
そもそも、僕は15歳で義務教育のレールを外れています(高校は義務教育ではないですが、進学率からして「義務的」になっていると言っていいでしょう。)
しかし、自分で能動的に勉強した結果、最終学歴は慶應義塾大学の大学院修了、法務博士です。
ほとんどの人が、「不登校」=義務に反している 学のない人になる
と考えがちですが、「就学」がただの教育の一つの形に過ぎない以上、その等式は成立しません。
現代において、「不登校」という言葉は不要どころか、不適切なのです。

僕も君も健常者であり、かつ、障害者である

やっぱり季節がわりは筋肉性の病気持ちにとってキッツイすよ〜

首が痛すぎて笑えるぜ!

そんな中でも、ALTER 公式チラシを作りましたぜ!

さて、今日は「僕も君も健常者であり、かつ、障害者である」です

重いテーマみたいに聞こえますが、僕は全人類、1日の中で、いわゆる健常者になる時もあるし障害者になる時もあると考えているので、とっても普遍的テーマ。普通です。


障害の要素は目的との関係で決まる

では、まず手抜きをしましょう。

つまり私のツイッターからの抜粋。

「本来、「障害者」と定義されるには当該会社において給料に見合わない労働生産性しか有せず事業継続の「障害」となることが明らかになる必要がある。
その文脈なしに雇用前に「事業継続の障害」になると判断される発達障害者へのラベリングは単なる理由なき差別である。」

この文章一つで完結はしているんですが、少し解剖していきましょうかね。

障害の意味をまず明らかにしましょう。ウィキ先生によると「正常な進行や活動の妨げとなるもの」です。

少し不十分ですね。
正しくは「当該目的との関連で正常な進行や活動の妨げとなるもの」のはずです。

正常や妨げかどうか判断するには目的が規定されていなければなりませんからね。

また、この目的は当然個別性を持ちます。
どの会社でも別々の目的をもって事業を営んでいますし、どの職務にもそれぞれの目的があるはずです。

したがって、普遍的な目的などではなく(そんなものなど存在しませんが)当該目的との関連性が障害を定義するのに問題となります。


市場主義の会社の中で

では、ある会社が事業をより良くするために、労働者を雇ったとしましょう。しかし、その労働者はその会社が支払う給料に見合う労働生産性を出せませんでした。
つまり、当該事業の目的の正常な進行を妨げる 労働者と定義されるにいたったと言えます。
この時点で、その労働者は当該会社との関係においてのみ、障害者と定義されます。
つまり、市場主義における障害者は「当該営利目的コミュニティにおいて自分の提供する労務と受け取る金銭が対価的均衡にない者」です。

しかし、そんな人は会社を見渡せばいくらでもいるでしょう。明らかに高給取りなのにわずかな労働生産性しか有していない偉そうなおっさんとか。
あれは「当該会社の事業目的との関連」でいえば、障害者です。
そして彼らは当然、当該労働者は解雇若しくは退職勧奨対象者として会社から出て行くべき存在となります。

ただこれは市場社会という「労働生産性をメルクマール」としている営利会社というコミュニティにおいてのみの話です。


家庭では

会社で「障害者」と定義される人でも、家に帰れば良いお父さんやお母さんかもしれませんね。
そして、もちろん、良いお父さんかお母さんかは「労働生産性」などをメルクマールとしません。
あえていうなら「当該子供の教育・成長において子供の成長を育んでいるか妨げているか」です。
家庭というコミュニテイが市場主義を採用していない以上、当然です。
つまり、会社で「障害者」と定義される人が家庭では「健常者」となるのです。


友達・恋人の中では

友人・恋人関係においてもそうです。友人というコミュニティでは「居心地の良さ」などがメルクマールとなるでしょう。誰が労働生産性で友達を選択するでしょうか(もしその基準で選択しているならそれは本当の友人・恋人と言えるでしょうか)。
つまりたとえで言うなら、平日の会社で労働生産性の悪い「障害者」と定義される人が、土日の休日ではとても気持ちのいい友人として「健常者」となるのです。


障害者性は変容する

今まで見た通り、障害者性と言うものはとてもフレキシブルなもので、シーン毎にその要素は変容します。

それは1日の中でもです。

満員電車で電話で酔っ払ってでかい声で会社を愚痴っているエリートサラリーマンは、「公共交通機関コミュニティにおける市民の快適な利用」という目的を妨げているので「障害者」です。
でも、家に帰れば良いお父さんかも。「健常者」です。

何が言いたいかというと、

結局のところ「障害者」かどうかは、コミュニティの目的によってすぐ変容するので普遍的な「障害者」はいない、そしてそのラベルを貼ることも間違っている ということです。

現代の市場主義を採用する会社というコミュニティで
1日10時間も働いている人間は、障害者性を「労働生産性」ということでしか判断できない環境下にいます。
しかも、大体が「当該」が抜けて「普遍的労働生産性」で考えています。思考という最大の労働をルーチン化せざるえないのです。

絶対普遍の「障害者」などいないのです。
絶対普遍の「健常者」がいないように。

誤魔化しの論理、本当の感情

最近、事業がやっと動いてきた感じがするのと同時にプレッシーを受けている 吉田です。
一般社団法人になるのに、友人の印鑑証明が中々取れんでいる!

一歩づつ一歩づつ進んでいけばいいんです(自分への励まし)

今日は時々遊びに行かせて頂いている放課後ディケアサービスで、子供達から学んだ 誤魔化しの論理、本当の感情について記事書いていきたいと思いますよ〜


子供達はそれだけしかわからないゆえに見抜ける

僕は15歳から筋肉系の病気を持っていて、少し体調管理を怠ると体全体が倦怠感に包まれてしまいます。

それでも、僕は言語操作が得意なので大人相手ならもっともらしい、難しい言葉を論理的に繋いでその場を「やり過ごせます」。

ただ、子供達はその「論理」がわからない。そして「論理」がわからないゆえに人の抱いている「感情」に対してすごく敏感です。言葉を喋れない障害者の方も同様ですね。

だから、僕が体調悪くてちょっと倦怠感を覚えていると、子供達は会話の中からそれを見抜いてしまいます。
具体的に表現すると、僕が倦怠感から人に対するコミュニケーションに「不安感」を抱いていることを見抜き、その子自身も「不安感」を出してしまうのです。


一般社会においても

まあ、なんということでしょう。僕の「感情」は子供には隠せないようです!

でも一般社会においても、本当に信頼できる人って「感情」が丸見えな人な感じがしませんか?

空気を読むとかそんなんじゃなく、ただ「感情」の赴くままに生きている人。

そんなの社会が許さない!という反論があると思います。

でも、僕はそんな「社会」がおかしいのだと思います。
だから、社会を抜本的に変えるために、社会の起点となる
「教育」を変えたいのです。

一般社会がもっと自分の感情を出せるような世界になるように

障害者と触れ合うことー非言語コミュニケーションが教えてくれるもの

うぃ〜〜

京都の夏は人を殺しかねん!狂っている!

「そうだ!狂都に行こう」

でもやっっっっと涼しくなってきましたね!
朝は。

さてさて、今回は障害者と触れ合うことの大切さを記事にしてみたいと思います。


メルクマールの流用の弊害

僕は標語を中心に活動している、重度の知的障害者・身体障害者の外出支援ボランティアの運営に携わっています。

その中のひとには、車椅子の方はもちろん、言語がすごく聞き取りづらかったり、そもそも言語を喋れなかったりする人もいます。

でも、その人たちは、健常者と変わりなく、僕の友達です。
そもそも、「障害者」という認識もあまりありません。

なぜか。

企業における社員評価のメルクマールは労働生産性でしょう。そういう面では彼らは「障害者」なのかもしれません。しかし、友達のメルクマールはそうではないでしょう。

「居心地がいいかどうか」のはずです。

しかし、一日のほとんどを「労働生産性」が問題になる会社で過ごしていると、会社を離れても、障害者かどうかのメルクマールを深く考えず、「労働生産性」と考えがちです
(メルクマールの流用)。

現代人には「何が障害なのか」を深く考える時間がないほど多忙なのです。


非言語コミュニケーションが教えてくれるもの

そのボランティアグループで障害者と健常者が一緒に計画を立てて、企画を行う時のテンションはめっちゃ高い!そして笑いも絶えません!

言葉が聞き取りづらかったり、そもそも喋ることができない人。その人たちは教えてくれるのです。

「言葉」という普遍的ツールが阻害する個人の「感情」の表し方を、表情やリアクションで。

そこには、健常人同士の変な探り合いはありません。
ただ、嬉しい、楽しい という感情があるだけです。
そして、僕もその渦に巻き込まれて、感情を思いっきり出せるのです。


非言語コミュニケーションの大切さなどを教えてくれるワークショップなどありますが、そもそもそれが言語コミュニケーションを軸としています。

そのようなものにお金を払って参加するより、障害者のコミュニティに思い切って突っ込んでみてはどうでしょう。

初めはびっくりするかもしれません。

しかし、慣れると 本当に大切なものを貰えます。

大人になってからの勉強:インプットとアウトプットの比率!

昨日、デイケアNO子供たちとマジで遊んで筋肉痛の吉田です!

久しぶりにエキサイトしました!子供はやっぱり遊びの天才ですな!

 

さてさて、今日も短い記事になりますが、大人になってからの勉強:インプットとアウトプットの比率について書いていきたいと思います。


アウトプットだけ「意識」すれば良い

端的に言ってしまえば、大人になってからはアウトプットだけ「意識」すればよいと思います。

理由は以下の2つ

①アウトプットはインプットを包含している

アウトプットする場所では、他の人のアウトプットに耳を傾け吸収しつつ、その文脈から外れすことなく喋ることになります。すなわちアウトプットする状況というのは必然的に情報のインプットを含むことになるのです

②フィードバックを得られる

インプットは自己完結です。自分の中にある無意識の「フィルター」を通して情報を取得して、自分で結論を出す、という非常に狭い世界観で完結します。

対して、アウトプットは必ずそれに対する他者の反応があります。つまり、自己完結は許されず、他者の知識世界に触れた結果というものが必ず返ってきます。

知性はトライアンドエラーによるフィードバックを獲得していくことによって育まれていきます。

ですから、アウトプットはインプットより本質的に優れているのです。

医者は本やフォルダでしかない

みなさん こんにちわ。

先日、霊学の治療を受けて「頭からは天使の光が降り注いでいる。しかし、下半身がグランディング(地に足がついてない)できていない。根菜類とか食べて地のパワーを補給して下さい。」と言われた 吉田です。

全くその通りで爆笑

頭でっかちで行動が伴っていない、ということは事業を支援してくれる人に何回も指摘されていたので

おぅーん(咆哮)

まあ、実践主義に軸足を移したばっかなので、今から変わってくる予感がするぜぃ。楽しみ〜。

さて今回の記事は少し短めに、お医者さんの判断と自分の判断について書いていきたいと思います。


医者は本かフォルダ

専門家は、「実践者」の高位に位置する人を言います。

例えば、禅の専門家は実際に禅の修行をしています。
投資家は実際に株式を買ってポジションを取っています。

つまり、専門家には実践したこと、言い換えれば当事者としての経験が必要なのです。
自分が体験していないことについて語るのは机上の空論であり、生きた言葉には決してならず、ゆえに生きた人間を動かすことはできないからです。

その点でいえば、医者は専門家に必要な「当事者性」を欠いています。多くの人は「お医者さんが言っていたから」という枕詞をつけますが、彼らは精神疾病や難病になった経験がありません。
それは「知っている素人」が言っているから、という言葉と同義なのです。


試行回数の多さに依存する

医者は専門家に必要な「当事者性」を欠いているがゆえにその「アドバイス」は単なるググって得られる知識となります。

そのような医者の3カ月に1回の診断に従うということは、非常に危険かつ効率が悪いです。なぜならメソッドが一つに限定されているため、トライ&エラーが実質上、行い得ないからです。

全ての事象に対する解への道筋に早く行き着くには、試行回数の多さに依存します。

自分で毎日、自分で判断して自分でフィードバックを得る自己治癒を試す方が トライ&エラーの数の分だけ正解への道筋は近いのです

医者の中でも立派は人はおられることは存じていますが、
患者は医者を主語にして喋るべきではないのです。

 

社会全体に良いことを社会で共有するー相依相関の世界において


社会全体に良いことを社会で共有する

最近、在る知的障害・身体障害者の外出支援ボランティアグループの運営の採用担当をしていて、思うことがあります。

事実としてボランティアさんは、ボランティアという加入要件が緩やかな反面として容易く団体を離脱します。

一回来て、音信不通になることも普通です。

ただ、持続可能な団体たるためにはそれでは不味い。

最近は、ボランティアさんに団体に参加することが一方的なgiveに止まらず自分へのtakeになっていることを、つまり互恵性を意識できるような企画を作ってボランティアさんの定着率を上げようとしています。

しかし、上記のような、社会に存在する有限の人的リソースを自団体に集中させることをしつつも、それとはまた異なる考えも僕は持っています。

それは、「社会全体に良いことを社会で共有する」、ことになるのであれば自団体におけるボランティアの離脱はそこまで否定的に取る必要がないということです。


社会課題解決の実践者は、一団体の個人財産ではない。

どういうことかというと、ボランティアに募集されてきた方々は、面接をしていればわかるのですが、何らかの形で社会的に良いこと(ソーシャルグッド)をしようと思われている方々です。もちろん程度はありますが。

そして、彼らは社会全体でみれば、社会で共有されるべき貴重な人的リソースです。会社・学校以外のコミュニティに身を置いて社会課題を解決しようという意気込みがある人だからです。
社会課題を解決しようという思いがある方は多いかもしれませんが、実践に移す方は貴重です。

その貴重な人たちを一団体の個人財産にしようと考えることは、社会全体の課題を解決しようという思考と矛盾することになります。

その人たちが自団体から抜けても、その人たちが他の良いボランティア団体に所属することになれば、社会全体にとって利益になることには変わりはないと思うのです。

我々が存在する意義は、自己を顕示することではなく、社会が抱える問題を、社会のつながりの中で解決することにあるからです。

ゆえに、社会課題解決の実践者は、一団体の個人財産ではないのです。

採用面接の際に、僕はボランティア募集に来てくださった方々にお願いしていることがあります。

「もし、当団体に合わないと感じたのなら、当団体に所属にこだわる必要はなく、他の良いボランティア団体での所属を考えて欲しいです。
それは、きっと社会全体にとってより良いことにつながると思いますから。」


相依相関の世界において

人間社会というのは複雑遠大この上ない相互依存によって成立しています。

この相依相関の世界において、個人は他の人々から孤立し、その属している集団から切り離されるとき、もはや存在しない、数学的にいうならば、1という数は、無限に存する他の数と関係しない限り、1ではないのです。

裏側から言うのであれば、相依相関の世界において、集団からの離脱が単に自団体からの離脱ではなく他団体への所属につながるなら、それは1であることには変わりはないのです。

個人は、孤立せずに、相衣相関を意識することさえできていれば、社会的に存在(共有)することができるのです。


ALTER の社会性

ALTER も、社会的に貴重な人材であるメンバーさんが登録して下さっていますが、彼らを社会的に共有することがそもそもの団体の設立趣旨です。

だからメンバーさんの独占ばかりを考えるのではなく、彼らの専門知識を、社会の中でどれだけ最大効率化させるかがALTER のやるべきことなのだと思うのです。

(・・・煩悩から脱しきれていない僕は、メンバーさんには出来るだけ自団体に関わって欲しい気持ちはあるんですが笑)

 

まあ、でも、

ALTER は現在メンバー大募集中!場所提供も大募集中!子供達の居場所作りをしたい方も大募集!!

最後台無しかな?笑

 

「僕は24歳。」ー時の経過と精神年齢ー

さてさて、今日は僕のことを大きく自己開示して、時の経過と精神的年齢、そして自分を許すことについて、語っていきたいと思います。


客観的な数字と主観的な数字

僕は今29歳でもうすぐ30歳です。

でも実は僕は24歳なのです。

何言ってるのか分からないと思いますが、実際そうなのです。

前者は「客観的な時の経過に基づく数字」
後者は「主観的な精神的年齢の成熟に基づく数字」
なのです。


社会との接点のない6年間

時は誰に対しても均等に流れて行きます。

5年経ったら高校1年生は20歳になることは予め決まっているのです。

これが時の経過の客観性です。

ただ、この時の経過に追従して、人の精神的年齢が成熟するとは限りません。
なぜなら、時の経過は客観的であっても人生は主観的であるからです。

僕の話をしましょう。

僕は高校1年で自主退学して、筋肉系の病気のために吐き気がとまらず、その後2年半は人とまともな関係を築くことができずに過ごしました。

大学院の受験においても丸1年間ぐらい、人との接触を自ら禁じて勉強していました。

そして司法試験の受験勉強でも丸2年半ぐらい、同じく人とまともに交流することなく生きてきました。

実は僕は、人との交流を失った期間が6年ほどあるのです。

その間に人との出会いを通じて自分の人格や精神を磨くという機会はありませんでした。

僕の人生における精神的成熟のための経験機会は、実年齢と比例してあったわけではないのです。


自分を許すこと

これは芸人で不登校経験がある髭男爵の山田さん(ルネサーンスの人)。彼は不登校が中2から始まって引きこもりになって、20歳の時に社会に出てきたらしいのです。

https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/95/

上記の記事とは別の記事で、彼は自分の年齢を6歳差し引いて考えていると仰っていました。
だって、6年間社会との接触が全くなかったのだから。そう考えた方が自然だし、楽だから、と。

僕はそのお話を聞いて「自分の足元をみて、自分を許してあげてるんだな」と感じました。

実際に僕は山田さん同様の経験をしたわけではありませんが、社会との接触がなかった経験からすれば、僕が社会一般的な「30歳」としての成熟した器量を持つ、いわゆる「大人な対応をする」人間であるというのは、偽った自分なのです。
6歳分、無理に背伸びして発する言葉や態度には無理が生じてしまうのです。
だって、僕にはその土壌がないのですから


24歳という事実。

最近まで、「もうすぐ30歳だからちゃんとしなきゃ」という気持ちが常に僕を焦らして、胸を締め付けてきました。
知ったかぶりをする必要がありました。だって、「30歳にもうなる」という事実をなんとか克服したかったからです。

でも、今は自分がただの24歳程度の、精神的に未熟な人間だと受け入れるようになりました。

だって、事実は違ったのですから。僕には社会との接点を無くした6年間という事実があったのですから。24歳という事実をもう無視したくない。

僕は本当に未熟です。でも、そんな自分を許そうと思います。楽にしていいよと言ってあげたい。

今は、本当に器の大きい30歳になれるように、社会と生きていこうと思うのです。

もっと精神年齢幼いかも?
まだまだ子供だ