現場で働く教師に聞いた、義務教育の現状ー(上原さん 教育委員会委員、小学生教諭インタビュー)

mou atusugite atusugite ・・・・恋に堕ちそう。

皆さま、体調気をつけてくださいん

さてさて!

今回は、ALTER のメンバーでもあり、 現役小学校教諭、教育委員会委員の上原修一さんに、「義務教育の現場が感じていること」をテーマとして対談式インタビューしてきました。

義務教育の現場の中で教育改革に挑んでいる同氏の見解は、外側から見ている私にはとても貴重でした。

それを記事にさせて頂きます。


インタビュアー
吉田聡史1989年生まれ ALTER 代表兼法務アドバイザー
吉田 聡史

上原修一 1989年生まれ ALTER 教育アドバイザー

京都府出身滋賀県在住。小学校教諭として通常学級、特別支援学級の担任を経験。現在は市の教育研究所の研究員として、日々子どもとの「共育」を志す。子どもが自立する学習設計、授業でのファシリテーション、コーチング、PBL等、日々様々な教育ノウハウに磨きをかけている。


教室というプラットフォームにどういう意義を見出すか

吉田:そもそも教室という物理的プラットフォームをどう捉えているか。
上原:天候には左右されない、子供達が安定して集団学習の出来る生活空間の一つとして捉えている。定位置に対する安心感を持つ子もいる。集合的になることでその子に程よく自制心が働く場合もある。
吉田:教師の立場からのメリットとしては、どういう機能を果たしていると思うか。
上原:定点観測の場所として意味がある。子供達の成長をその教室の場で注意深く観察することが出来ると思っている。
吉田:定点観測という点では、ICTなどの導入により、各々の子供について「データ」を取って教師が管理出来る教育などが外国などでは実施されているが、それについてはどう思うか。
上原:確かにデータによる管理も考えられるが、先生に提出される生徒の記述したことと実際に生徒が思っていることは異なってくることが多い。
その子は色々な不満を抱えながらも提出物はその感情を反映していないことがある。それは、その子たちの言語化能力の未成熟によることもある。そこで、物理的プラットフォームというファイス トゥ フェイスの場所で、言語化できない感情を看取する機能が教室にはあると思う。


教室内の生徒のストレスケアについて

吉田:教室というプラットフォームのなかで、現在の現場の生徒に対するストレスケアについてどう感じているか。
上原:十分ではないと感じている。教室という場所は、一定数の生徒にストレスを与え続ける。例えば不得意もやらなければならない。ずっと人といることがつらい子もいる。人の話を聞き続けることがつらい子もいる。
子供と言っても、やはり一人一人必ず違う。自分は「その子」には〜という文脈でしか教育を考えていない。しかし、現場ではまだまだ、「子供」という雑なラベリングで対処していて、「その子」にとって何が良いか、という個人最適の環境が整備されていない。
吉田:ストレスについては、全くないのは害と思うが、現場で「その子」に対するストレスは必要な程度に収まっていると思うか。
上原:教室が与えるストレスは必要な程度ではない。
子供というラベリングではなく、その子に寄り添う体制になっていない以上、不必要なストレスが「その子」にかかり続ける。


科目の数と1科目に対する可処分時間の妥当性

吉田:オルタナティブスクールや海外のスクールでは、子供自身に科目決定権があったりその可処分時間を決定することができたりする。
現場の教師、教育委員会の委員の見地からそこらへんをどう考えているか。
上原:本来的にはその子が決めたらいいと思う。
現行の小学6年生の時間割は 国語175時間、算数175時間、理科90時間、体育90時間、図工音楽60時間 道徳35時間
となっている。
吉田:道徳の時間の導入については議論のあるところだが、どう考えているか
上原:哲学対話を取り入れている先生もいるので、面白いとは思う。友達と話して、人生について考えていく。
吉田:クラスの中での哲学的対話となると、同一の知識をインプットされた同一の年代での30人が、世界という広い分野について哲学することになり、非常に狭い視野での議論になるのではないか。
上原:確かにそういう危惧はある。
吉田:科目の数について現場の感覚はどうか。
上原:数が多すぎる。また授業時間も多すぎる。現場はパンク状態。
例えばN高は個別でできるものは科目から外して、それぞれのペースでやらせる、プロジェクトだけは集合でやるなど創意工夫をしている。
そうであれば、一人で出来る国語、算数は科目としては要らないように感じる。
また、先生一人で全てできるわけではない。
吉田:科目についてのクオリティの話に移るが、先生はその科目について大学である程度勉強したかもしれないが、「専門家」として学問をおさめた訳ではない。例えば、100時間国語の教育科目を履修をした人と1万時間国語の根掘り葉掘り研究した人では、国語の美しさを語るレベルは後者の方が高い。そうであれば、後者の人にアウトソースしてティーチングしてもらう、いわゆるプロフェッション制度の導入の方が望ましいのではないか。
上原:確かにプロフェッション制度の方が好ましい。
8割、9割の子はそっちの方が学習において良いだろう。
他1〜2割は「その子」に合わせた、個人最適の問題になると思う。


教室内での教師の立ち位置をどこに置くか(フラットか、権威的か)

吉田:教室内において、教師はどうあるべきと思うか。
上原:権威性は不要。あえていうなら、同じ方向を向いて、成長していくサポーター(成長性志向サポーター)。あくまで、人生の決定権は子供にある。
自己決定が出来るように問いかけをしていく。
1対1ならコーチング。1対多なら力関係を考慮したファシリテーティング。
ただ、上記の際には、教師に「自身の見解」を憑依させないように気をつけるべき。そうでなければ問いかけが子供の自己判断を鈍らせるから。教師としては、可能な限り自己の主観を排し、一般論を自身に憑依させ、それをモデリングとしてコーチング・ファシリテーティングするべきと考える。
吉田:上原氏は子供を縦・横の関係で言えばどう見ているのか。
経験が少ない大人として子供を定義する。子供としてみない方が面白い。
上じゃなく横の関係。そして、子供から学ぶことは多いから同じ方向を向いている。ただ経験の分だけ先に教師がいるだけ。


学びのインプット・アウトプット 

吉田:義務教育におけるインプット・アウトプットの順序や比率についての見解を伺いたい。
上原:順序の問題としては、今はインプットが先。しかし逆であるべき。
例えば空気は出すから入る。
まずインプットだと、その与えられたインプットしか出さない。実際の問題に接着(アウトプット)してからの方がインプットが捗る。
オルタナティブな教育としてパフェーマンス課題やプロジェクト授業等がある。フィンランドでは、カフェで働くに際して必要な情報だけインプットする。
つまり先にアウトプットの場を設ける。
大人においても、アウトプットする人が少ないのは、義務教育において受動的に学習してきたから。
吉田:親御さんの問題も関係しているか。
上原:親が子供の判断権を奪ってインプットをさせたがる。それに教師もそれに従わなければならない。アウトプットを待つ時間がない。そしてインプット過多の授業になり、抽象的な学びが具体的事象に繋がらず、勉強としては非効率となる。


以上、上原氏のインタビュー記事でした。

これでもかなり議論の中身を削った感じですが、というかかなり自分の意見をぶつけた面もあったのでそれは結構削りました。
田原総一郎っぽい感じになりましたかね・・・

ではでは!