僕も君も健常者であり、かつ、障害者である

やっぱり季節がわりは筋肉性の病気持ちにとってキッツイすよ〜

首が痛すぎて笑えるぜ!

そんな中でも、ALTER 公式チラシを作りましたぜ!

さて、今日は「僕も君も健常者であり、かつ、障害者である」です

重いテーマみたいに聞こえますが、僕は全人類、1日の中で、いわゆる健常者になる時もあるし障害者になる時もあると考えているので、とっても普遍的テーマ。普通です。


障害の要素は目的との関係で決まる

では、まず手抜きをしましょう。

つまり私のツイッターからの抜粋。

「本来、「障害者」と定義されるには当該会社において給料に見合わない労働生産性しか有せず事業継続の「障害」となることが明らかになる必要がある。
その文脈なしに雇用前に「事業継続の障害」になると判断される発達障害者へのラベリングは単なる理由なき差別である。」

この文章一つで完結はしているんですが、少し解剖していきましょうかね。

障害の意味をまず明らかにしましょう。ウィキ先生によると「正常な進行や活動の妨げとなるもの」です。

少し不十分ですね。
正しくは「当該目的との関連で正常な進行や活動の妨げとなるもの」のはずです。

正常や妨げかどうか判断するには目的が規定されていなければなりませんからね。

また、この目的は当然個別性を持ちます。
どの会社でも別々の目的をもって事業を営んでいますし、どの職務にもそれぞれの目的があるはずです。

したがって、普遍的な目的などではなく(そんなものなど存在しませんが)当該目的との関連性が障害を定義するのに問題となります。


市場主義の会社の中で

では、ある会社が事業をより良くするために、労働者を雇ったとしましょう。しかし、その労働者はその会社が支払う給料に見合う労働生産性を出せませんでした。
つまり、当該事業の目的の正常な進行を妨げる 労働者と定義されるにいたったと言えます。
この時点で、その労働者は当該会社との関係においてのみ、障害者と定義されます。
つまり、市場主義における障害者は「当該営利目的コミュニティにおいて自分の提供する労務と受け取る金銭が対価的均衡にない者」です。

しかし、そんな人は会社を見渡せばいくらでもいるでしょう。明らかに高給取りなのにわずかな労働生産性しか有していない偉そうなおっさんとか。
あれは「当該会社の事業目的との関連」でいえば、障害者です。
そして彼らは当然、当該労働者は解雇若しくは退職勧奨対象者として会社から出て行くべき存在となります。

ただこれは市場社会という「労働生産性をメルクマール」としている営利会社というコミュニティにおいてのみの話です。


家庭では

会社で「障害者」と定義される人でも、家に帰れば良いお父さんやお母さんかもしれませんね。
そして、もちろん、良いお父さんかお母さんかは「労働生産性」などをメルクマールとしません。
あえていうなら「当該子供の教育・成長において子供の成長を育んでいるか妨げているか」です。
家庭というコミュニテイが市場主義を採用していない以上、当然です。
つまり、会社で「障害者」と定義される人が家庭では「健常者」となるのです。


友達・恋人の中では

友人・恋人関係においてもそうです。友人というコミュニティでは「居心地の良さ」などがメルクマールとなるでしょう。誰が労働生産性で友達を選択するでしょうか(もしその基準で選択しているならそれは本当の友人・恋人と言えるでしょうか)。
つまりたとえで言うなら、平日の会社で労働生産性の悪い「障害者」と定義される人が、土日の休日ではとても気持ちのいい友人として「健常者」となるのです。


障害者性は変容する

今まで見た通り、障害者性と言うものはとてもフレキシブルなもので、シーン毎にその要素は変容します。

それは1日の中でもです。

満員電車で電話で酔っ払ってでかい声で会社を愚痴っているエリートサラリーマンは、「公共交通機関コミュニティにおける市民の快適な利用」という目的を妨げているので「障害者」です。
でも、家に帰れば良いお父さんかも。「健常者」です。

何が言いたいかというと、

結局のところ「障害者」かどうかは、コミュニティの目的によってすぐ変容するので普遍的な「障害者」はいない、そしてそのラベルを貼ることも間違っている ということです。

現代の市場主義を採用する会社というコミュニティで
1日10時間も働いている人間は、障害者性を「労働生産性」ということでしか判断できない環境下にいます。
しかも、大体が「当該」が抜けて「普遍的労働生産性」で考えています。思考という最大の労働をルーチン化せざるえないのです。

絶対普遍の「障害者」などいないのです。
絶対普遍の「健常者」がいないように。

誤魔化しの論理、本当の感情

最近、事業がやっと動いてきた感じがするのと同時にプレッシーを受けている 吉田です。
一般社団法人になるのに、友人の印鑑証明が中々取れんでいる!

一歩づつ一歩づつ進んでいけばいいんです(自分への励まし)

今日は時々遊びに行かせて頂いている放課後ディケアサービスで、子供達から学んだ 誤魔化しの論理、本当の感情について記事書いていきたいと思いますよ〜


子供達はそれだけしかわからないゆえに見抜ける

僕は15歳から筋肉系の病気を持っていて、少し体調管理を怠ると体全体が倦怠感に包まれてしまいます。

それでも、僕は言語操作が得意なので大人相手ならもっともらしい、難しい言葉を論理的に繋いでその場を「やり過ごせます」。

ただ、子供達はその「論理」がわからない。そして「論理」がわからないゆえに人の抱いている「感情」に対してすごく敏感です。言葉を喋れない障害者の方も同様ですね。

だから、僕が体調悪くてちょっと倦怠感を覚えていると、子供達は会話の中からそれを見抜いてしまいます。
具体的に表現すると、僕が倦怠感から人に対するコミュニケーションに「不安感」を抱いていることを見抜き、その子自身も「不安感」を出してしまうのです。


一般社会においても

まあ、なんということでしょう。僕の「感情」は子供には隠せないようです!

でも一般社会においても、本当に信頼できる人って「感情」が丸見えな人な感じがしませんか?

空気を読むとかそんなんじゃなく、ただ「感情」の赴くままに生きている人。

そんなの社会が許さない!という反論があると思います。

でも、僕はそんな「社会」がおかしいのだと思います。
だから、社会を抜本的に変えるために、社会の起点となる
「教育」を変えたいのです。

一般社会がもっと自分の感情を出せるような世界になるように

障害者と触れ合うことー非言語コミュニケーションが教えてくれるもの

うぃ〜〜

京都の夏は人を殺しかねん!狂っている!

「そうだ!狂都に行こう」

でもやっっっっと涼しくなってきましたね!
朝は。

さてさて、今回は障害者と触れ合うことの大切さを記事にしてみたいと思います。


メルクマールの流用の弊害

僕は標語を中心に活動している、重度の知的障害者・身体障害者の外出支援ボランティアの運営に携わっています。

その中のひとには、車椅子の方はもちろん、言語がすごく聞き取りづらかったり、そもそも言語を喋れなかったりする人もいます。

でも、その人たちは、健常者と変わりなく、僕の友達です。
そもそも、「障害者」という認識もあまりありません。

なぜか。

企業における社員評価のメルクマールは労働生産性でしょう。そういう面では彼らは「障害者」なのかもしれません。しかし、友達のメルクマールはそうではないでしょう。

「居心地がいいかどうか」のはずです。

しかし、一日のほとんどを「労働生産性」が問題になる会社で過ごしていると、会社を離れても、障害者かどうかのメルクマールを深く考えず、「労働生産性」と考えがちです
(メルクマールの流用)。

現代人には「何が障害なのか」を深く考える時間がないほど多忙なのです。


非言語コミュニケーションが教えてくれるもの

そのボランティアグループで障害者と健常者が一緒に計画を立てて、企画を行う時のテンションはめっちゃ高い!そして笑いも絶えません!

言葉が聞き取りづらかったり、そもそも喋ることができない人。その人たちは教えてくれるのです。

「言葉」という普遍的ツールが阻害する個人の「感情」の表し方を、表情やリアクションで。

そこには、健常人同士の変な探り合いはありません。
ただ、嬉しい、楽しい という感情があるだけです。
そして、僕もその渦に巻き込まれて、感情を思いっきり出せるのです。


非言語コミュニケーションの大切さなどを教えてくれるワークショップなどありますが、そもそもそれが言語コミュニケーションを軸としています。

そのようなものにお金を払って参加するより、障害者のコミュニティに思い切って突っ込んでみてはどうでしょう。

初めはびっくりするかもしれません。

しかし、慣れると 本当に大切なものを貰えます。

大人になってからの勉強:インプットとアウトプットの比率!

昨日、デイケアNO子供たちとマジで遊んで筋肉痛の吉田です!

久しぶりにエキサイトしました!子供はやっぱり遊びの天才ですな!

 

さてさて、今日も短い記事になりますが、大人になってからの勉強:インプットとアウトプットの比率について書いていきたいと思います。


アウトプットだけ「意識」すれば良い

端的に言ってしまえば、大人になってからはアウトプットだけ「意識」すればよいと思います。

理由は以下の2つ

①アウトプットはインプットを包含している

アウトプットする場所では、他の人のアウトプットに耳を傾け吸収しつつ、その文脈から外れすことなく喋ることになります。すなわちアウトプットする状況というのは必然的に情報のインプットを含むことになるのです

②フィードバックを得られる

インプットは自己完結です。自分の中にある無意識の「フィルター」を通して情報を取得して、自分で結論を出す、という非常に狭い世界観で完結します。

対して、アウトプットは必ずそれに対する他者の反応があります。つまり、自己完結は許されず、他者の知識世界に触れた結果というものが必ず返ってきます。

知性はトライアンドエラーによるフィードバックを獲得していくことによって育まれていきます。

ですから、アウトプットはインプットより本質的に優れているのです。

現場で働く教師に聞いた、義務教育の現状ー(上原さん 教育委員会委員、小学生教諭インタビュー)

mou atusugite atusugite ・・・・恋に堕ちそう。

皆さま、体調気をつけてくださいん

さてさて!

今回は、ALTER のメンバーでもあり、 現役小学校教諭、教育委員会委員の上原修一さんに、「義務教育の現場が感じていること」をテーマとして対談式インタビューしてきました。

義務教育の現場の中で教育改革に挑んでいる同氏の見解は、外側から見ている私にはとても貴重でした。

それを記事にさせて頂きます。


インタビュアー
吉田聡史1989年生まれ ALTER 代表兼法務アドバイザー
吉田 聡史

上原修一 1989年生まれ ALTER 教育アドバイザー

京都府出身滋賀県在住。小学校教諭として通常学級、特別支援学級の担任を経験。現在は市の教育研究所の研究員として、日々子どもとの「共育」を志す。子どもが自立する学習設計、授業でのファシリテーション、コーチング、PBL等、日々様々な教育ノウハウに磨きをかけている。


教室というプラットフォームにどういう意義を見出すか

吉田:そもそも教室という物理的プラットフォームをどう捉えているか。
上原:天候には左右されない、子供達が安定して集団学習の出来る生活空間の一つとして捉えている。定位置に対する安心感を持つ子もいる。集合的になることでその子に程よく自制心が働く場合もある。
吉田:教師の立場からのメリットとしては、どういう機能を果たしていると思うか。
上原:定点観測の場所として意味がある。子供達の成長をその教室の場で注意深く観察することが出来ると思っている。
吉田:定点観測という点では、ICTなどの導入により、各々の子供について「データ」を取って教師が管理出来る教育などが外国などでは実施されているが、それについてはどう思うか。
上原:確かにデータによる管理も考えられるが、先生に提出される生徒の記述したことと実際に生徒が思っていることは異なってくることが多い。
その子は色々な不満を抱えながらも提出物はその感情を反映していないことがある。それは、その子たちの言語化能力の未成熟によることもある。そこで、物理的プラットフォームというファイス トゥ フェイスの場所で、言語化できない感情を看取する機能が教室にはあると思う。


教室内の生徒のストレスケアについて

吉田:教室というプラットフォームのなかで、現在の現場の生徒に対するストレスケアについてどう感じているか。
上原:十分ではないと感じている。教室という場所は、一定数の生徒にストレスを与え続ける。例えば不得意もやらなければならない。ずっと人といることがつらい子もいる。人の話を聞き続けることがつらい子もいる。
子供と言っても、やはり一人一人必ず違う。自分は「その子」には〜という文脈でしか教育を考えていない。しかし、現場ではまだまだ、「子供」という雑なラベリングで対処していて、「その子」にとって何が良いか、という個人最適の環境が整備されていない。
吉田:ストレスについては、全くないのは害と思うが、現場で「その子」に対するストレスは必要な程度に収まっていると思うか。
上原:教室が与えるストレスは必要な程度ではない。
子供というラベリングではなく、その子に寄り添う体制になっていない以上、不必要なストレスが「その子」にかかり続ける。


科目の数と1科目に対する可処分時間の妥当性

吉田:オルタナティブスクールや海外のスクールでは、子供自身に科目決定権があったりその可処分時間を決定することができたりする。
現場の教師、教育委員会の委員の見地からそこらへんをどう考えているか。
上原:本来的にはその子が決めたらいいと思う。
現行の小学6年生の時間割は 国語175時間、算数175時間、理科90時間、体育90時間、図工音楽60時間 道徳35時間
となっている。
吉田:道徳の時間の導入については議論のあるところだが、どう考えているか
上原:哲学対話を取り入れている先生もいるので、面白いとは思う。友達と話して、人生について考えていく。
吉田:クラスの中での哲学的対話となると、同一の知識をインプットされた同一の年代での30人が、世界という広い分野について哲学することになり、非常に狭い視野での議論になるのではないか。
上原:確かにそういう危惧はある。
吉田:科目の数について現場の感覚はどうか。
上原:数が多すぎる。また授業時間も多すぎる。現場はパンク状態。
例えばN高は個別でできるものは科目から外して、それぞれのペースでやらせる、プロジェクトだけは集合でやるなど創意工夫をしている。
そうであれば、一人で出来る国語、算数は科目としては要らないように感じる。
また、先生一人で全てできるわけではない。
吉田:科目についてのクオリティの話に移るが、先生はその科目について大学である程度勉強したかもしれないが、「専門家」として学問をおさめた訳ではない。例えば、100時間国語の教育科目を履修をした人と1万時間国語の根掘り葉掘り研究した人では、国語の美しさを語るレベルは後者の方が高い。そうであれば、後者の人にアウトソースしてティーチングしてもらう、いわゆるプロフェッション制度の導入の方が望ましいのではないか。
上原:確かにプロフェッション制度の方が好ましい。
8割、9割の子はそっちの方が学習において良いだろう。
他1〜2割は「その子」に合わせた、個人最適の問題になると思う。


教室内での教師の立ち位置をどこに置くか(フラットか、権威的か)

吉田:教室内において、教師はどうあるべきと思うか。
上原:権威性は不要。あえていうなら、同じ方向を向いて、成長していくサポーター(成長性志向サポーター)。あくまで、人生の決定権は子供にある。
自己決定が出来るように問いかけをしていく。
1対1ならコーチング。1対多なら力関係を考慮したファシリテーティング。
ただ、上記の際には、教師に「自身の見解」を憑依させないように気をつけるべき。そうでなければ問いかけが子供の自己判断を鈍らせるから。教師としては、可能な限り自己の主観を排し、一般論を自身に憑依させ、それをモデリングとしてコーチング・ファシリテーティングするべきと考える。
吉田:上原氏は子供を縦・横の関係で言えばどう見ているのか。
経験が少ない大人として子供を定義する。子供としてみない方が面白い。
上じゃなく横の関係。そして、子供から学ぶことは多いから同じ方向を向いている。ただ経験の分だけ先に教師がいるだけ。


学びのインプット・アウトプット 

吉田:義務教育におけるインプット・アウトプットの順序や比率についての見解を伺いたい。
上原:順序の問題としては、今はインプットが先。しかし逆であるべき。
例えば空気は出すから入る。
まずインプットだと、その与えられたインプットしか出さない。実際の問題に接着(アウトプット)してからの方がインプットが捗る。
オルタナティブな教育としてパフェーマンス課題やプロジェクト授業等がある。フィンランドでは、カフェで働くに際して必要な情報だけインプットする。
つまり先にアウトプットの場を設ける。
大人においても、アウトプットする人が少ないのは、義務教育において受動的に学習してきたから。
吉田:親御さんの問題も関係しているか。
上原:親が子供の判断権を奪ってインプットをさせたがる。それに教師もそれに従わなければならない。アウトプットを待つ時間がない。そしてインプット過多の授業になり、抽象的な学びが具体的事象に繋がらず、勉強としては非効率となる。


以上、上原氏のインタビュー記事でした。

これでもかなり議論の中身を削った感じですが、というかかなり自分の意見をぶつけた面もあったのでそれは結構削りました。
田原総一郎っぽい感じになりましたかね・・・

ではでは!

 

医者は本やフォルダでしかない

みなさん こんにちわ。

先日、霊学の治療を受けて「頭からは天使の光が降り注いでいる。しかし、下半身がグランディング(地に足がついてない)できていない。根菜類とか食べて地のパワーを補給して下さい。」と言われた 吉田です。

全くその通りで爆笑

頭でっかちで行動が伴っていない、ということは事業を支援してくれる人に何回も指摘されていたので

おぅーん(咆哮)

まあ、実践主義に軸足を移したばっかなので、今から変わってくる予感がするぜぃ。楽しみ〜。

さて今回の記事は少し短めに、お医者さんの判断と自分の判断について書いていきたいと思います。


医者は本かフォルダ

専門家は、「実践者」の高位に位置する人を言います。

例えば、禅の専門家は実際に禅の修行をしています。
投資家は実際に株式を買ってポジションを取っています。

つまり、専門家には実践したこと、言い換えれば当事者としての経験が必要なのです。
自分が体験していないことについて語るのは机上の空論であり、生きた言葉には決してならず、ゆえに生きた人間を動かすことはできないからです。

その点でいえば、医者は専門家に必要な「当事者性」を欠いています。多くの人は「お医者さんが言っていたから」という枕詞をつけますが、彼らは精神疾病や難病になった経験がありません。
それは「知っている素人」が言っているから、という言葉と同義なのです。


試行回数の多さに依存する

医者は専門家に必要な「当事者性」を欠いているがゆえにその「アドバイス」は単なるググって得られる知識となります。

そのような医者の3カ月に1回の診断に従うということは、非常に危険かつ効率が悪いです。なぜならメソッドが一つに限定されているため、トライ&エラーが実質上、行い得ないからです。

全ての事象に対する解への道筋に早く行き着くには、試行回数の多さに依存します。

自分で毎日、自分で判断して自分でフィードバックを得る自己治癒を試す方が トライ&エラーの数の分だけ正解への道筋は近いのです

医者の中でも立派は人はおられることは存じていますが、
患者は医者を主語にして喋るべきではないのです。

 

自己表現へのアクセシビリティの変化ー(中山さん記事)

 

ごあいさつ

皆さま、初めまして。プロボノとしてALTERで活動することになりました、中山です。オルタナティブスクール、サードプレイスがどのような方々に求められ、利用されているのかを含め、まだまだ知識や経験はありませんが、私なりに感じたことをこの場でつづっていきたいと思います。

 


絵が上手でなくてもデザインはできる時代に

およそ20年前になりますが、私は大学を休学してデジタルグラフィック系の専門学校に通っていました。3DCGやAdobeのPhotoshop、IllustratorなどのPCソフト、Web制作の習得がメインです。生徒は社会人(脱サラ含む)やフリーターがほとんどで、私のような学生は少数派です。それぞれいろんな思惑を持って専門学校に入ったとは思いますが、みんながぼんやりと思っていたことは、「これからはデジタルの時代や」ということでしょう。グラフィックデザイナーとかWebデザイナーという職種がもてはやされ始めたのもちょうどこれくらいの時期(その頃の映画やテレビ、CMでもCGを使った新しい表現方法がたくさん現れました。ディスニーアニメがフルCGになったのもこの頃。)だと思います。※当時はこんなMacを使っていました。

懐かし~。

その中での特徴的な気づきに、概して全員絵が上手いというわけではなかったという点がありました。とはいえ、卒業制作(過去の卒業生の作品含め)はプロ的なクオリティのものもあり、これをもって制作会社へ売り込みに行く人もおられます。デジタル黎明期だったということもありますが、ひとえにデジタル化の恩恵によるものだと考えます。(学校ではアナログ的な基礎が不可欠だからデッサンはしろ、と口酸っぱく言われていました。)


脳内を表現する手段へのアクセシビリティが向上

「習字→ワープロ」のように、美しい文字を紙へ表現するために筆づかいやらの動作による修練にかかる時間が格段に短縮されました。文字の美しさについてはワープロでは「級」「段」の概念はもうありません。同様の現象はグラフィックなら「写植・アートワーク→DTP」、音楽なら「演奏・アレンジ→DTM(打ち込み)」という変革がデジタル化によってもたらされ、専門的技能が素人の手が届く範囲へと広がったと言えます。専門的技能を分解して考えると、手指・身体の動き、師匠による口伝とその理解、特殊な道具、習得に費やす時間、これらの要素が必須で、いくらアイデアや表現願望があったとしても、いずれかが不足していると達成できるものではありません。デジタル化がそこからいろいろハードルを取っ払っていきました。PC、アプリ、プリンタがあれば、マウス操作ひとつで店舗のPOP程度のグラフィックデザインならすぐにできてしまうことは皆さんもご理解いただけるところだと思います。しかもPCやプリンタは汎用的なので、投資も比較的しやすいです。技術的な情報(この頃は掲示板がメイン)もWEB上で入手できます。遠くの専門店に行って、何種類も絵具や筆をかつ必要もないし、画面上でなら何度でもやり直しができるし、「技は見て盗め」的な師匠(いたのか?そんなの)もいらない。つまり、脳内のアイデアをデザインで形にする作業へのアクセスシビリティが格段に向上した、というのが今なのです。PCの性能も上がり、コストもずいぶん下がりました。

 


大多数の被義務教育者との差別化

オルタナティブスクール、サードプレイスを求める方々の一部には、文字を書く、絵を描くといった動作自体が、いわゆる通常の人と比べて困難な方がおられると思います。PCなどのツール環境さえそろえば、そんな方でもデザインは可能な社会になっているわけです。現在の義務教育の中では、専門的なグラフィックツールを学ぶプログラムはありません。ワードなどでもある程度のデザインは可能ですが、よりプロ的なデザイン、精細な表現をしようとするとAdobe系などの専門的なツールが有利ですし、素人との差別化が可能になります。これからの世の中をサバイバルしていくためには他者との差別化が重要です。大多数が受ける義務教育との差別化ツールのひとつとして、義務教育の「美術」という枠組みの中に、オルタナティブスクールではこのようなデザインツールが選択肢として存在すると有効に機能するのではないかと感じています。

社会全体に良いことを社会で共有するー相依相関の世界において


社会全体に良いことを社会で共有する

最近、在る知的障害・身体障害者の外出支援ボランティアグループの運営の採用担当をしていて、思うことがあります。

事実としてボランティアさんは、ボランティアという加入要件が緩やかな反面として容易く団体を離脱します。

一回来て、音信不通になることも普通です。

ただ、持続可能な団体たるためにはそれでは不味い。

最近は、ボランティアさんに団体に参加することが一方的なgiveに止まらず自分へのtakeになっていることを、つまり互恵性を意識できるような企画を作ってボランティアさんの定着率を上げようとしています。

しかし、上記のような、社会に存在する有限の人的リソースを自団体に集中させることをしつつも、それとはまた異なる考えも僕は持っています。

それは、「社会全体に良いことを社会で共有する」、ことになるのであれば自団体におけるボランティアの離脱はそこまで否定的に取る必要がないということです。


社会課題解決の実践者は、一団体の個人財産ではない。

どういうことかというと、ボランティアに募集されてきた方々は、面接をしていればわかるのですが、何らかの形で社会的に良いこと(ソーシャルグッド)をしようと思われている方々です。もちろん程度はありますが。

そして、彼らは社会全体でみれば、社会で共有されるべき貴重な人的リソースです。会社・学校以外のコミュニティに身を置いて社会課題を解決しようという意気込みがある人だからです。
社会課題を解決しようという思いがある方は多いかもしれませんが、実践に移す方は貴重です。

その貴重な人たちを一団体の個人財産にしようと考えることは、社会全体の課題を解決しようという思考と矛盾することになります。

その人たちが自団体から抜けても、その人たちが他の良いボランティア団体に所属することになれば、社会全体にとって利益になることには変わりはないと思うのです。

我々が存在する意義は、自己を顕示することではなく、社会が抱える問題を、社会のつながりの中で解決することにあるからです。

ゆえに、社会課題解決の実践者は、一団体の個人財産ではないのです。

採用面接の際に、僕はボランティア募集に来てくださった方々にお願いしていることがあります。

「もし、当団体に合わないと感じたのなら、当団体に所属にこだわる必要はなく、他の良いボランティア団体での所属を考えて欲しいです。
それは、きっと社会全体にとってより良いことにつながると思いますから。」


相依相関の世界において

人間社会というのは複雑遠大この上ない相互依存によって成立しています。

この相依相関の世界において、個人は他の人々から孤立し、その属している集団から切り離されるとき、もはや存在しない、数学的にいうならば、1という数は、無限に存する他の数と関係しない限り、1ではないのです。

裏側から言うのであれば、相依相関の世界において、集団からの離脱が単に自団体からの離脱ではなく他団体への所属につながるなら、それは1であることには変わりはないのです。

個人は、孤立せずに、相衣相関を意識することさえできていれば、社会的に存在(共有)することができるのです。


ALTER の社会性

ALTER も、社会的に貴重な人材であるメンバーさんが登録して下さっていますが、彼らを社会的に共有することがそもそもの団体の設立趣旨です。

だからメンバーさんの独占ばかりを考えるのではなく、彼らの専門知識を、社会の中でどれだけ最大効率化させるかがALTER のやるべきことなのだと思うのです。

(・・・煩悩から脱しきれていない僕は、メンバーさんには出来るだけ自団体に関わって欲しい気持ちはあるんですが笑)

 

まあ、でも、

ALTER は現在メンバー大募集中!場所提供も大募集中!子供達の居場所作りをしたい方も大募集!!

最後台無しかな?笑

 

「僕は24歳。」ー時の経過と精神年齢ー

さてさて、今日は僕のことを大きく自己開示して、時の経過と精神的年齢、そして自分を許すことについて、語っていきたいと思います。


客観的な数字と主観的な数字

僕は今29歳でもうすぐ30歳です。

でも実は僕は24歳なのです。

何言ってるのか分からないと思いますが、実際そうなのです。

前者は「客観的な時の経過に基づく数字」
後者は「主観的な精神的年齢の成熟に基づく数字」
なのです。


社会との接点のない6年間

時は誰に対しても均等に流れて行きます。

5年経ったら高校1年生は20歳になることは予め決まっているのです。

これが時の経過の客観性です。

ただ、この時の経過に追従して、人の精神的年齢が成熟するとは限りません。
なぜなら、時の経過は客観的であっても人生は主観的であるからです。

僕の話をしましょう。

僕は高校1年で自主退学して、筋肉系の病気のために吐き気がとまらず、その後2年半は人とまともな関係を築くことができずに過ごしました。

大学院の受験においても丸1年間ぐらい、人との接触を自ら禁じて勉強していました。

そして司法試験の受験勉強でも丸2年半ぐらい、同じく人とまともに交流することなく生きてきました。

実は僕は、人との交流を失った期間が6年ほどあるのです。

その間に人との出会いを通じて自分の人格や精神を磨くという機会はありませんでした。

僕の人生における精神的成熟のための経験機会は、実年齢と比例してあったわけではないのです。


自分を許すこと

これは芸人で不登校経験がある髭男爵の山田さん(ルネサーンスの人)。彼は不登校が中2から始まって引きこもりになって、20歳の時に社会に出てきたらしいのです。

https://www.nhk.or.jp/heart-net/article/95/

上記の記事とは別の記事で、彼は自分の年齢を6歳差し引いて考えていると仰っていました。
だって、6年間社会との接触が全くなかったのだから。そう考えた方が自然だし、楽だから、と。

僕はそのお話を聞いて「自分の足元をみて、自分を許してあげてるんだな」と感じました。

実際に僕は山田さん同様の経験をしたわけではありませんが、社会との接触がなかった経験からすれば、僕が社会一般的な「30歳」としての成熟した器量を持つ、いわゆる「大人な対応をする」人間であるというのは、偽った自分なのです。
6歳分、無理に背伸びして発する言葉や態度には無理が生じてしまうのです。
だって、僕にはその土壌がないのですから


24歳という事実。

最近まで、「もうすぐ30歳だからちゃんとしなきゃ」という気持ちが常に僕を焦らして、胸を締め付けてきました。
知ったかぶりをする必要がありました。だって、「30歳にもうなる」という事実をなんとか克服したかったからです。

でも、今は自分がただの24歳程度の、精神的に未熟な人間だと受け入れるようになりました。

だって、事実は違ったのですから。僕には社会との接点を無くした6年間という事実があったのですから。24歳という事実をもう無視したくない。

僕は本当に未熟です。でも、そんな自分を許そうと思います。楽にしていいよと言ってあげたい。

今は、本当に器の大きい30歳になれるように、社会と生きていこうと思うのです。

もっと精神年齢幼いかも?
まだまだ子供だ

コモディティ型企業と消費者独占型企業④ー金融教育

唐突に。現時刻 25時です。なぜか最近この時間から作業をしている・・・・・

やっぱり「昼暑すぎて絶対に外でない」と決めてるから色々ずれてきましたね。

でもね。仕方ないのです。外行くと、「俺に恨みあんの?」ってくらい暑いんですもん。京都は蒸し暑いのもあんだよね・・・
僕の服装も黒づくめなので熱吸収しまくって、僕が熱源となっています。死の恐怖を感じます。。。


ではでは、消費者独占型企業を見分ける8つの基準の後4つ、解説していきます。

❺現状を維持するために、内部留保利益の大きわ割合を再投資する必要があるか
❻内部留保利益を新規事業や自社株買い戻しに自由に使えるか
❼インフレを価格に転嫁できるか
❽内部留保利益の再投資による利益が、株価上昇に繋がっているか


❺現状を維持するために、内部留保利益の大きい割合を再投資する必要があるか

理論的には、平均的な企業のROEが12%で配当が8%と仮定すれば、4%分だけ内部留保される。これが毎年繰り返されれば、株価は持分価値の増加率と同じ4%で上昇し続けるはずである。したがって、株式の価値の増大は、内部留保された利益の再投資がもたらす持分価値の蓄積から生まれる(スミス理論)、とも考えられる。
しかし、内部留保の再投資が必ずしも株主の持分価値の増加に繋がるわけではない。つまり、現実では多くの企業は単に現状維持のためだけに、内部留保を使って設備の改善や手直しを続けなければならないのだ。したがって、通常の、多くの企業の場合、内部留保利益が株主価値の増加には結びつかない。

しかし、バフェットは「消費者独占型企業」だけはその例外ということを指摘している。
一般に消費者独占型企業は、内部留保利益を固定資産の手直しや新製品開発に投入する必要はあまりなく、非常に高収益の既存事業をさらに拡大するか、別の高収益企業の買収に振り向けることができる。
つまり、自由に使える内部留保利益の存在によって不測の事態に対処できる余裕が持てるだけでなく、長期的に株主価値の増殖が期待できるのである。

利益をあげることと、その一部を内部留保する余裕があるかどうかは別問題で、さらに内部留保利益を何に使うかはまた別の問題なのである。
したがって、スミス理論が当てはまるのはその企業が「利益をあげ」「内部留保をする余裕があり」「内部留保の大きな割合が単なる現状維持のための再投資だけに終わらない」という条件が全て満たされたときなのである。

ここで簡単な例を挙げてみよう。今、ある企業が年間100万ドルの利益をあげ、全額内部留保したとする。同社は一方で、2年毎に生産設備を更新するために200万ドルの新規投資をしなければならない。このようなケースでは企業は事実上何ら価値を付け加えられないのである。
理想は毎年200万ドルの利益をあげ、全く更新投資を必要としないタイプの企業である。
例えば価格競争に常にさらされているコモディティ企業は、多額の利益をあげはするが、その価格競争力を担保するために色々な設備の更新や研究開発のためにそれ以上の投資や支出を余儀なくされる。そのために頻繁に増資を繰り返して株数を増やし、巨額の資金を調達しなければならなくなる。

対して地方都市で唯一の新聞を発行する新聞社は、株主の富を大いに増やした企業である(今のSNSが普及した世界では考えがたいが、昔はあり得た)。
新聞事業は一旦必要な設備を揃えてしまえば、それ以後ほとんど株主の資金を再投資に回す必要はないのだ。したがって、同社は内部留保利益をもっぱら他の新聞を買収することに用い、株主の富の増大に繋げていった。

この比較から得られる結論は①追加投資の必要がなくて持分価値そのものが増え続けるタイプの企業と②あくまで追加の資本を調達して投入し続けることによって規模が拡大し続けるタイプの企業と、2種類あることである。
そして後者のタイプの企業は、景気後退の局面で資金調達難に陥る可能性を強く含んでいる。
逆に前者の企業は、どんな苦境からでも立ち直る余力を持っている。

投資対象としては常に、設備更新や研究開発のための再投資負担の少ない、消費者独占型企業を探すべきなのである。製品が陳腐化しにくく、製法は単純で、ほとんど競争相手のいないタイプの企業である。
いつの時代にも、消費者の好みが変わらないタイプの製品を提供する企業の将来は予想しやすく、収益見通しも確実である。
(バフェットがあげるのは、街でたった一つの新聞、キャンディーやチューインガムのメーカー、髭剃り刀のメーカー、ソーダーやビールメーカーなどである)

❻内部留保利益を新規事業や自社株買い戻しに自由に使えるか

優良企業の条件として重視されるもう一つの基準は、
「内部留保利益を利益率の高い新しい事業に自由に投入できるか」
である。しかし、これは❺で十分述べたとおもうので(スミス理論の例外)
自社株買い戻しに焦点を当てて解説したい。
❺で述べたような既存事業への再投資負担が小さい企業でも、平均以上の利益率を期待できる新事業を持っていなかったり、過去の内部留保運用の成果が芳しくない企業の場合は投資対象としては要注意である。
バフェットはこうした企業は利益のなるべき大きな割合を配当で支払うあ、自社株買い戻しに充てるのがベストであると指摘する。
内部留保による自社株買い戻しは、企業が事実上自社の資産の一部を買い戻すことになる訳で、買い戻しに応じなかった株主は将来の利益のより大きな割合を所有することができる。
例をあげよう。3人の中で始めたパートナーシップの会社があって、それぞれが持分の3分の1を所有しているとしよう。パートナーの一人が持分を売りたいといので、パートナーシップの資金を使って買い戻したとする。この結果、残ったパートナーの持分は2分の1ずつに他kまり、将来の利益は2人で折半することになる。これと同様の理屈で、自社株買い戻しは残った株主の将来の取り分を高めることになり、それを反映して株価は上昇し、株主は報われるのである。
❼インフレを価格に転嫁できるか

「インフレ」とは物価が持続的に上昇することである。コモディティ型の企業の問題は、人件費や原材料費が上昇する中で、過当競争の圧力にさらされてむしろ製品価格の引き下げに追い込まれる可能性があることだ。時には売値より生産コストの方が高くなることすらありうる訳で、その場合は巨額の損失を出すことになる。その結果、市場の供給過剰がい解消するまで生産を削減せざるをえず、そのための生産調整が長期に及ぶことも多い。需給均衡の法則は働くにしても、短期間にそれが実現する訳ではないのである。その間、赤字が累積し続け、企業の活力は失われていく。(牧畜業はいつもこのジレンマに悩まされている。家畜の売価が下がる中で、餌材や燃料費、人件費、保険料、医療費などは上昇し、翌年の家畜相場を読み違えると、零細業者はたちまち行き詰まってしまう。)
同様な自体はしばしば航空事業でも生じる。航空会社は、色々な固定費契約に縛られている。機体、燃料費のほか、パイロットや地上員、整備員、スチュワーデスなどの組合との協定に伴う支出は重く、インフレがこれに拍車をかける。
生存競争上、ある日突然、大幅な値下げに踏切らざるを得ないのだ。
私たちは数社あるいはそれ以上の会社の中から、好きなフライトを選べる。そしてその中の1社が下げすぎると、全員がお手上げになってしまうのだ。1960年代のアメリカではニューヨークとロサンゼルスの往復料金は優に千ドル以上はした。それが最近では、例えばユナイテッド航空では439ドルで往復できる。
この30年度間に機体、燃料、人件費、それにあのまずい食事ですらコストは約3倍に増えているのに、過当競争のおかげでチケット代は大幅に安くなっている。
このようなことを考えれば時々、航空会社がオーバーランして破綻するのも無理からぬことである。
このようにコモディティ型の産業では、生産コストが上昇する中で、過当競争のせいだで売値が下がることがよくある。関わるべきではないのだ。

これに対して消費者独占型企業の場合には、インフレに合わせて製品の値上げをしても、それに伴う需要の減退を心配する必要がない。インフレがどうなろうとも、利益水準を維持できるのである。
コカコーラもマルボロもリグレー・チューインガムもハーシーのチョコバーも、顧客を失うことなくインフレ分だけ価格を引き上げてきたのである。そして最もじゅうなことは、長期的にはそれがむしろ収益性の一掃の上昇をもたらし、企業価値もそれだけ高まりつつけてきたことである。その理由はつぎの通りである。

ハーシーは毎年、まるで時計の針のように規則正しく1000万語のチョコバーを売り上げる。1980年当時1本のチョコバーを作るコストは20セントで、それを40セントで販売していた。つまり1個当たりの儲けは20セントだった。したがって、同社の1980年の利益総額は単に20セントを1,000万倍した200万ドルだった。もしその時点の同社の発行済株数が400万株だったとすると、1株当たり利益は200万ドルを400万株で割った50セントになる。そして、その時点の同社株に対する株式市場の評価が株価収益率率(PER)15倍だったとすれば、株価は50セント掛ける15倍で、7ドル50セントということになる。
時は移って2000年になり、平均物価はこの20年でちょうど2倍になったとしよう。ハーシーのチョコバー1個の製造コストは今では40セントになり、そrを80セントで売っている。1個あたり利益も今では40セントだ。そして同社の利益総額は40セント掛ける1000万個の400万ドルで、やはり20年前の2倍に増えている。
ここからが重要なポイントだ。もし同社の発行済株数が依然として400万株で同じなら、今や1株当たり利益は1ドルに増えているはずである。つまり同社は同じ販売個数から20年前の2倍の利益を株主のために生んでいる。仮にPERが15倍で変わらなければ、現在の株価は20年前の2倍の15ドルになっているはずである。チョコバーの値段と同様、あなたの持ち株の価値も2倍に高まったのである。
これを実現するために、ハーシーはより沢山のチョコバーを作る必要もなければ、追加の設備投資も従業員も必要としなかった。もし物価水準が2倍になる中で、あなたの購買力を維持しようとすれば、あなたの投資の価値も2倍に高めなければならない。そして消費者独占型企業への株式投資が、これを可能にしてくれる。

これが「インフレを価格に転嫁する」ということだ。

❽内部留保利益の再投資による利益が、株価上昇に繋がっているか

この基準については❺で十分に述べたところだ。つまり、消費者独占型企業の株を適当な株価で購入できれば、内部留保利益の再投資が着実に企業価値を高め、株価も持続的に高まるのである。


以上で、消費者独占型企業を見分ける8つの基準の紹介は終わりです。

はっきり言って、「バフェットの銘柄選択術」のほぼ丸写しに近いので笑
だって知らないアメリカの企業がバンバン出てくるでしょ!
知らんがな、チューインガムの会社とかチョコバーの会社とか。

実際に株式を勉強したい方は、バフェットの著作を読み込まれることをお勧めします。

この記事は、ある意味、僕のまとめ作業でもあるので。

ではでは!