最近の胸に刺さる金言

組織という誤解の場所から離れて、ただ自分と人類を信じている
説明:何十年も変わらない世界に対して怒りと人類という種への信頼(そんなに人間はバカじゃないだろう)という気持ちを表した言葉。

●深く考えていないと、夢は降ってくる
説明:夢を持つことの大切さを複数人で議論してきたところに降ってきた言葉。

●今を生きている人は夢さえ持たない
説明:仮説立てや言語化ばっかの自分には響いた言葉。

●過去を偽ることはダメやけど、未来に対して何か言うのはいいんだよ
説明:他人に見下されるのが怖いから自分を大きく見せようとする僕は、これを聞いて「自分を偽る回数を出来るだけ減らす」と心に決めました。

自分から残されたプライドを折りにいった。そうすると生きているのが楽しい
説明:人には凹凸があります。その凸を折りにいく。それが人を見下す原因になるのだから。

●大人が何かお題目を唱えて教えるべきじゃない。子供たちは、勝手に育つ
俺たちのできることは、環境を整えてあげることだ
説明:偶然に再開した幼馴染の言葉。教育委員会にいて現場で戦っている奴の言葉だから、すごい響いた。

全部ここ数日でいただいた言葉。
素敵な言葉を、本当にありがとう。

こんな社会を目指して。頑張りまっしょい。

「新しい人と出会う量とアイデアの量は比例する」

今週末、金土日と連続で教育関係のミーティングに、1つファシリテート、2つ参加してきました。

楽しかった〜

めっちゃ疲れました笑
終わった後はずっと寝込んでました。体弱い僕にとっては大阪への移動も結構負担。

そのミーティングを通じて一つ気づいたことがあります。
それは「新しい人と出会う量とアイデアの量は比例する」

具体的にイベント内容を見ていきましょう。

1 日程
金曜日:箕面子供の森学園主催の教育カフェマラソン(参加者)
東京パラリンピック、アーチェリー日本代表候補選手の江口舞さんのミーティングでした。
10人ぐらいの小規模ながら、小規模だからこそ「本当のバリアフリーとは」「夢を持つこととは」という深いテーマを深ぼって語り合うことができました。
江口さんは事故で片足を16歳の時に失くされたのですが、本当にポジティブを実体化させたみたいな方!
しかもまだ21歳。
僕もジストニアという筋肉系の難病を江口さんと同じくらいの歳の15歳で発症して学校を辞めました。今もその病気と戦っています。

ふと横に座っていた僕に江口さんが「でも、障害者って得じゃないですか?」と聞かれて「一瞬一瞬を全力で生きようと思うからですかね?」と答えたら
「そうです!」と意見が一致!
「難病・障害を持ったからこそ、一瞬一瞬を大事に生きることができる。漫然とした生き方はもうできない」ということ。

いや、ほんとにそうだと思います。
これだけのつらく重いモノを偶発的に与えられたからこそ、生きる証をこの世界に意図的に強く残したい って思うのです。
だって負けたくないですから。こんな偶発的事象に。だから「夢を持てない」とかは僕の人生観ではあり得なくて「それは夢だと言われても仕方のないぐらい大きなことを成し遂げたい」と必然的に思ってしまうのです。
ただ、僕はどちらかというと「社会への怒り」が原動力となって動く感じなのですが、江口さんは「より楽しく人生を生きよう」が原動力となって動く感じらしいのです。
いや〜あんな素敵な笑顔でそんな素敵なこと言われたら雷落とされちゃいます・・・
僕にはない感覚をくれた江口さんにはただただ感謝です!
連絡先交換すればよかったな・・・人見知りが出ちゃった(照れ

土曜日:あいしんくムーン in 京都(主催者)
これはさかいハッタツ友の会という発達当事者会の一つのグループを僕が持っていまして、同会が京都に進出したいということから僕のグループが京都の桂西口会館で開くことになったものです。(僕はADD(過集中型注意欠陥障害)という発達の障害を持っています。障害者手帳も3級のを頂いています。)

とはいっても、あいしんくムーンは、普通の発達当事者会のように「発達障害だから私はダメなんだ。わかってくれない相手がダメなんだ。そうじゃない?」というようなネガティブな感情を共有する場を目指してはいません。

僕は発達当事者会を「誰がどう思うかを気にする事なく、ただ今の自分が思っていることをそのままアウトプットする場」というポジティブなものにしたいと思っています。
なぜなら、人間にとって最大の快楽は「自分の感情を制約なく表現すること」だと思うからです。健常者であっても社会的・一般的という雰囲気から気を使って生きざるを得ないのであり、実際には自分の感情を吐き出したいのだと思っています。
だからこそ、あいしんくムーンだけはそれを許す場でありたいと思うのです。
I think を強く意識して表現して欲しい。

会の説明会が長くなりましたが、京都で初めての開催ということで少数の参加者ながら、ものすごい濃い内容の話かつ笑いが絶えない場所となりました。
色んな分野の話になりました。カンパニーの在り方、労働力の適正配置、スクールの在り方、政治の在り方、税制の在り方、プロボノとしての価値創出etc・・・
発達だからできないではなく、発達の尖った個性から出てくる意見・物事の見方に僕は魅了されるのです。ファシリテーターとは言いながら僕は勉強をそこでいっぱいさせた頂いたと思っています。
本当に僕が望んでいた当事者会が初めて実現できたということで満足感は半端なかったです。
「今日は超楽しかったです!」
自然にから出て来た自分の言葉に自分でも驚きましたね。

日曜日:関係△◻︎人口会議~ツッコミ待ちです秋田県~(参加者)
これはなんで行ったかというと松浦真さんが実践されているcobonのプラグラムhttps://www.cobon.jp/に目ん玉が飛び出たからです。
松浦さんは、秋田に拠点をおきながらも子供達連れて日本を3ヶ月ごとに移動しながら学んでいる、という「へ?」というぐらい突飛な教育プログラムを実践されている方です。

幸いにも30分ぐらい松浦さんを独り占めできました。
まぁ、松浦さんが本当に良い方! 僕みたいなへっぽこ事業家にも礼節を持ってお話しをしてくださりました。僕は瓶ビールを片手にもう片手でノートをとるという、真面目なのか不真面目なのかわからない感じで、3本も地ビールを空けていい気分になりがなら色々とお話しすることができました。
松浦さんはALTER 公式サイトも読んでくださっていて「ALTERの理念に共感します」と言ってくださりさらに僕は上機嫌、酒が進みました笑

松浦さんは「エドテック」という教育とテクノロジーの融合も実践されています。フィンテックやリーガルテックなどは聞いていましたが、エドテックは聞いたことがなく興味深々で聞いていました。松浦さんは子供にブロックチェーンなどを教えたり、子供だけで仮想社会を構築したりと、その実践体験を聞くのはとても興奮しましたね。

2 感想
僕は木曜日の自分と今の自分が同じ人間とは思えません。
本当に素晴らしい人々と出会えて、色々な知識を対面で吸収して、自分なりの考えもアウトプットして、アイデアを生み出す土壌となる知性が、木曜の僕より豊かになったと思うからです。

まぁ、かな〜りカロリーの高いミーティングばかりだったので今日はゆっくりしたいですが、言えることが一つあります。

「新しい人と出会う量とアイデアの量は比例する」

腑に落ちた言葉だけ使うべきなのであーる

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皆さんの人生で、心に刺さった言葉は、
論理的な言葉であったでしょうか?
それとも他人に説明するのが困難とも思える言葉であったでしょうか?

 

今日のテーマは後者の「腑に落ちた言葉」の大切さ

1 「腑に落ちた言葉」
:一般性論理性より自分が人生で獲得してきた感情を言葉にのせたモノ

これが僕が魅了される言葉です。

例えば、風景の素晴らしさを描写するとき、論理的な言葉を使った瞬間 「錆びる」

「腑に落ちた言葉」は文章化すると何を言っているかがわからない。
なぜなら論理化という人間の共通言語の必須とも言える法則を破っているから。

しかし、その現場で聞くと抽象度の高いレベルで「感じる」ことができます。響くんです。

「人間を論理より情動的な生物」と捉えている僕からすれば、論理的な文章は自分の感情を偽っている可能性が高いものが高いのです。もちろん例外もありますが。

「腑に落ちた言葉だけを羅列したセンテンス」は感情を偽った回数が少ない。

信憑性が高いのです。だから感情に響くのです。

ただ、ビジネスシーンの多くでは、face to faceでいつも語れる訳ではありません。

「腑に落ちた言葉」は共通言語の法則を破っているため、 face to faceという五感が高度に働かない場では意味が不明です。

また、時間が限定されているビジネスでは解釈に時間がかかるため好まれません。

2 「腑に落ちた言葉」の伝え方

それでは時間が限定された中での「腑に落ちた言葉」伝え方とは?

極端に短い言葉にすることです。

使える母音子音が少なすぎる条件下では、話者は言葉への集中度が違います。

野球の序盤のイニングの攻撃と8、9回の攻撃の集中度は違いますよね。

一緒です。

頭のライブラリーを検索しまくった結果、狙い球を絞るしかないんです

そして、そこから出てくる言葉は見事に自分の感情を表わしています。

映画の告知等のエンタメコンテンツの宣伝文句などを見て、皆さん思い出すこともあるのではないでしょうか。

極端に短い言葉は、長く論理的な言葉より強力に感性に訴えかけてくることを。

3 ALTERでの言語コミュニケーション

ALTERはエンタメコンテンツではなく、またface to faceの場でのみコミュニケーションを取り、じっくり話し合う時間をとるというシステムであるため、腑に落ちた言葉や極端に短い言葉を無理に使う必要はありません。

ただ、僕が好きなのは「腑に落ちた言葉」。

そういう意味では、子供は「腑に落ちた言葉」の使い手の天才であるので、僕はある意味尊敬しています。

発達障害がなくなる日

発達障害は消失します。

厳密にいえば、「障害」の定義ができなくなります。

マイノリティー・マジョリティーの比率が崩れるからです。

このグラフの意味づけが何を救うのか

上記のグラフに人を当てはめるようなこともなくなります
ではなぜ消失するのか?
大きくは2つの要素が関係します。
①雑なラベリング
②人間生体学の進化

1 「発達障害」という雑なラベル貼りがもたらすモノ

現代では「発達障害」の認知はめちゃくちゃに上がっておりクリニックに行く人が増える一方、
その基準が曖昧なため発達障害は簡単に診断されてしまいます。
社会的認知が上昇すれば「グレー当事者」も足を運びやすくなります。
そのグレー当事者が参加して「自分もそうかも」と思う可能性は非常に高い。
なぜなら、そもそも足を運ぶような方は何らかの「解」を求めているからです。
その思いから「解」を求めて診断を受ければ
診断基準の緩和に基づく「雑なラベリング」が行われ 当事者が増えます

「雑なラベルリング」

しかしこれこそが、発達障害を無くす原動力となります。

そもそも「障害」は社会的マジョリティが社会的マイノリティに対して定義するものです。

多数者が「障害者」の立場に立つことは決してありません。
多数者が自らを肯定的に定義するための一番楽な手法は少数者に対してマイナスの定義をすることだからです。
この文脈からすれば「雑なラベリングによる発達障害者の増加」は、実は発達障害を無くす方向に向かいます。
障害定義要件であるマイノリティ性が崩れるからです

2 テクノロジーと人間生体学の発展がもたらすモノ
テクノロジーによって人の解像度が高まっています。この人はどんな特徴があるのか、テクノロジーによるデーターストックも全世界的に進んでいます。
このようなテクノロジーによる人間の生体に関する解像度の高まりがもたらすのは、爆発的な「一次的発達障害者の増加」です

つまり、自分の特徴がテクノロジーによって数字化されたりすることによって、「発達障害の特徴」 に当てはまる人が可視的になります(一次的発達障害診断)。そして容易に発達障害のラベルが貼られます。
マジョリティの地位を脅かされた一次的発達障害者である人たちが自分の尊厳を守るには、こう思うしかないのです。
「これは俺の特徴であって、障害なんてもんじゃない。診断自体が間違っている。」
価値の転換が生じるのです。

3 発達障害が消失する流れ
以上の推論を踏まえれば、発達障害が無くなる流れは以下のようになります。

①現在の発達ムーブメントと人間生体学の進歩によって「雑なラベリング」が横行
② 人口母数に対する割合が変化
③マイノリティと言えなくなる数になる
④「あれ、おれたちはなんで発達障害じゃないといえる?」
「障害」の再定義 が始まる
⑤「普通」が定義できない以上、発達「障害」も定義できない

結局は、多様性がテクノロジーによって可視化される未来の社会の中では、発達障害は「特性」として個人最適の問題として捉えられるようになるのです。

葉の色が「おかしく」見えるのは フィルターの問題

どっちがおかしいかな。

もちろん未来のことは誰にもわかりません。

だからこそ、未来のことを言葉にする価値がある

発達障害の消失 終わり

※場所提供・賃貸のお願い

現在、京都大阪でのオルタナティブスクール(簡単なもの)の設立を考えています。

平日の2日ぐらいか、土日に午前か午後だけ、という、本当に軽いものです。

どなたかそのための場所を提供または賃貸してくださる方がいればご連絡頂けますと幸いです!

箕面子供の森学園

箕面子供の森学園 https://kodomono-mori.com/index.html 

みなさんはこの学園の存在を知っていますでしょうか?

外的圧力を感じた場合、人は自分の行動に責任を感じずまた正当化ができないため行動が継続しません。大人で勉強を辞めてしまうのはこれが原因です。
やらされてきた勉強だからです。

 

しかし、この学園は内的動機を非常に大切にしている。 人生100年時代において100年勉強できる人材が育つ土壌がある。

このような学園を複製化するのがALTERの目的です。

僕もここで法律のワークショップの開催予定しています。まだ日程・内容を詰める必要がありますが。

親御さんの立場から、子供の抱える問題に、法律という解決ツールをもってどう手を差し伸べられるか。

それを主題とするつもりです。

未成年は原則法律的な「行為をする能力」がありませんから、その代理としての親の法律知識は非常に重要なのです!

※2022年4月1日から18歳から成年者となりますね。それを忘れてパワポ作っとた・・・いかん危ない危ない

試験という真剣試合

1 試験という真剣試合
その意義は何でしょうか。

その人の知能指数?知識の熟練度?

僕は 「真剣試合」性を強制的に儲けることだと思います。

何事も「真剣試合」の時がスキルが伸びます。
自分の能力を総動員するとき、自分のコップの中の水があふれ出そうとするとき、初めて人の器が広がります。

 

試験は厳密な監督の下、短時間 自分の最大出力を図るものです。

その試験下でのアウトプット、つまり「真剣試合」の下でのみ
「自分の限界値」を出せます。

「限界を越えようとする意志」をもって挑んだ練習でも出なかった「火事場の馬鹿力」が出る場合もあります。

そして、振り返りを即時に行うことにより、また人間は高みを目指せるのだと思います。

2 真剣試合性を損なうもの

しかし、いくつかの試験では「真剣勝負」の最高のメリットを享受できないものがあります。

メジャーどころだと、TOEICやSPI試験。

受けられた方は多いと思います。

どちらも、自分の解答が合っていたかどうか即時のフィードバックが得られません。

あれって受けている時、最高に楽しい。興奮してるんですね。
僕だけかもしれませんが笑

自分の限界が分かるし、限界を超えなきゃいけないこともわかる。
「試合中に成長する感覚」 真剣試合だからこそ得れるものです。

ただ、その最高の集中力の結果が帰ってこない。

野球などで打率やスコアボードに刻み込まれるべき自分の真剣試合の証が、すぐには自分に返ってこないのです。

TOEICは点数は返ってきますが自己の解答は返してもらえません。

自分の最高だったと思う解答が間違っていた時のショックや集中力が勝った瞬間の選択

真剣試合だったからこそ、振り返りたい。結果じゃなく、自分の最高出力を知りたい。

なんども言いますが、試合の意義は「真剣試合」性にあります。

TOEICが100点上がった結果なんて1ヶ月後には知りたくないんですよ。
どうせ忘れていますから、試験のことなんて。

スコアをつける試験なら、何でそういう結果が生じたのか フィードバックを即時に返す必要があるのです。

フィードバックの即時性がない試験が、試験が本来持つ「真剣試合」性を損なっています。

3 自分にできること

毎日、真剣試合をしていきましょう。そしてその結果をすぐ自分で確認できる環境に身をおきましょう。

会社の中でも、フリーランスでも、起業家(環境的に強制されますが)でも。

能力の最高出力を繰り返していって、自分の器を広げていきましょう。

ラフな言葉によるラベリングー発達「障害」なのか「傾向」なのかー教育の箱

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https://twitter.com/mirailist/status/1078922420067590145

フォローしているみらいのリストさんのツイートをみて、改めて思ったのですが、

社会では、あまりにもラフな言葉によるラベリングが多すぎます。

(そもそも社会という言葉もラフです。また記事にします!)

 

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ラベリング

「コンプライアンス」などの新しい外来語を解釈や、外国人労働者を外国人労働「力」という完全にモノ扱いする言葉などが、色々な弊害を生みます。

 

まずこの記事では、

発達の尖りを「障害」というのか「傾向」というのか

に焦点を当てて行きましょう。

 

1 2つの理由

人間はそれぞれに異なった遺伝子、認知特性、そして異なる人生経験を持っていますから、「傾向」にバラツキが出るのは当然です。

 

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そして自分の「傾向」を知ることは良いはずです。自分の適性を押さえて最適解を出しやすくなるのですから。

 

したがって、自己の発達の特性に「傾向」があると知っていることは、社会におい適正に基づいて最適なことをこなすことに繋がり、

結果、社会全体の幸福値を上げられる「はず」です。

 

では、なぜその発達の特性の「傾向」がある人と認定されると「障害」という言葉のラベルが貼られるのでしょう?

 

認定者側、つまり定型者には「傾向」がないとでもお思いなのでしょうか。

 

おそらく、そういうことでもないでしょう。

 

 

社会(ここでは社会的マジョリティを指します)が発達の尖りを「障害」とラベリングする理由は、主に2つ

「多様性に対する管理コストの抑制」

「マニュアル人間の自己肯定」です。

 

2 歴史からの考察

時は遡りますが、明治からの列強に対抗するための富国強兵政策で、政府は「強力な軍隊」を編成するために、上層部の命令を「バラツキなくこなせる一律・従順なまあまあ優秀な兵隊」を養成することが急務でした。

そこから、義務教育が始まりました。

 

そこでは個人の特性に沿った最適解などは求められず、政府のお題目にちゃんとついてこれるかという一律性・規則性、

つまり教科書というマニュアルに書いてあることを一定のレベルで実行できる能力が求められました。

 

個人の特性に沿った最適解などを探すことをサポートなどする財務的余裕もなかったでしょうし、何より軍隊では「上司の命令を以下に思考停止して遂行できるか」が重要となるからです。

 

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戦後、日本が焼け野原になった後、義務教育は軍国主義思想からは脱却しましたがマニュアル主義から抜け出せていません。

単純に、個人の特性に沿った最適解を探すことをサポートするよりもマニュアル渡してそれを実行しろ、という方が「楽」だからです。

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楽っすわー

 

それが現代の義務教育でありその「教育の箱」で鋳型に無理やり詰め込まれた人間は卒業後は大半はマニュアル人間と化してしまっています。

(日本は高校までの進学率も高いので高校まで準義務教育的と言っていいでしょう。これを便宜的に「教育の箱」と言っています)

 

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教育の箱

そして、「教育の箱」出身者のマニュアル人間が社会のマジョリティかつ母数が多い事による優位者である以上、

彼らは多様性に基づく個人の最適解よりマニュアルに基づく実行能力を評価します。

 

その方が「管理する側において楽」と感じているのでしょうし、

何よりそれは「自分が歩んできた自分の道を正当化する」ことにもなるからです。
自分の正当性を確かめる1番の方法は、後続にも同じことをやらせて成功させることですから。

 

日本の会社がいまだにジェネラリストを養成しようとしているのもこの延長線上にあります。

 

しかし、現在・・・・・

マニュアルに基づく実行能力テクノロジーによる代替可能性が一番高いものです。

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コンピューターのマニュアル実行能力には人間はとても叶いません。またマニュアルが情報通信の発達によりほぼ共有知となっていることからも、優れたマニュアルにも意味はなくなってきています。

現在日本の企業が世界で苦戦しているのはこのことをよくわからないまま「とにかくマニュアル」という人間が「上層部」に多いからです。

 

さらに、今日では多様性に基づく個人の特性の最適解に対する管理コストは高くありません。

なぜならテクノロジーによって個人の特性の「傾向」を可視化できるからです。

また、人口減少社会においては昔より一人の人間に対しての集中することができます。

 

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人間の適正が可視化されていく

結局、「多様性に対する管理コストの抑制」というのは現在においては当てはまりませんし、「マニュアル人間の自己肯定」というのもただの価値観の押し付けです。

 

時代性においても、多様性に基づく個人の特性の最適解は好ましいことなのです。

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まずは意見を聞こう

3 結論

以上から、やはり発達「障害」という言葉には

疑問符 なのです。

何に「障」るのか、何が「害」なのか。

「傾向」と「障害」の分水嶺はどこか

ここら辺を明確にしないまま、ネガティヴな言葉でラベリングすることは、大きな問題だと考えています。

・・・・早く京田辺シュタイナーの記事書かねば!! さらばです!!

 

肉親との相性ー育児の距離感

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 お父さん お母さんと 何で 「気が合うと思うの?」


1 肉親との相性

 

母親(父親)と子供の相性

(子供が経済的に自活できない年齢を主に想定しています)

 この2者が「気が合う」「一緒にいて仲が良い」なんてことは「家族観」を大事にする社会的な規範に基づいた「妄想」です。

血こそ繋がっていますが、違うDNAと認知特性と、何より積み重ねてきた人生が異なる以上、肉親であっても「別個体」です。

 

そして「別個体」同士が気が合うかどうか色々な要素に左右されルカらです。

 

それを

「家族だから」

「分かり合えるはず・べき」というメディア及び識者のよく分からない言説により作出された「世間のアタリマエ」を意識して関係を構築すると

歪な、ストレスフルな関係が作出されます。

気の合わない人と長時間、物理的に一緒の空間にいることは「メチャクチャに辛い」

(実際ぼくと母親は思考性向が真逆なので「衝突」するタイムリミットが存在します。)

 

これが家族が家族を殺す という一部の凄惨な事態の一因になっているとも考えています。

 

人々の多様性と個人最適解については前の記事でお話ししましたが、家族においても同様なのです。

家族は当然に多様です。最適解も異なります。

互いにコントロールすることなど土台無理かつ不適当なのです

2 育児とは「仕事である」

多様性がある、ということは「育児」のやり方にも母親のかたごとに「最適解」があるということです

 

そして育児は、負担からみれば明らかに「仕事」に該当します。大人が「仕事」を休んだり、辞めてまでそれに従事するほど価値のあるモノなのですから、それは立派な仕事です。

それは持続可能な社会において必須の仕事です。

そうだとすれば、「育児」は育児サービスとも置き換えられます。
そして、多様性を前提とすれば、当然に、親御さんの中で「育児サービス」に向いていない方もいるわけです。

昨日ツイッターで「週末2回会う」と仰られながらも悩まれていた母御さんがおられましたが、ぼくは「凄い!」と思いました。

個人最適解を実践していらっしゃる」と感激したからです。

 

明らかに「世間のアタリマエ」に思考停止で従うより健全です。

なぜなら「ストレスフル」な母親の提供する育児サービスの「良質性」が担保されているはずがありませんから。

例えばあなたが店員でストレスを感じている状態で客に「良質」なサービスを提供できるでしょうか?

例えばあなたは「ストレスを抱えた店員」のサービスを受けたいでしょうか?

彼の態度は横柄で、声が小さく、目も合わせてくれないでしょう。

 

ストレスは必ず所作に出ます。伝播するのです。そのお店はすぐにその店員の配置転換などを考えるべきです。

ストレスフルな育児サービスは子供にも伝播するのです。

 

ストレスフルな育児サービスは子供を潰します。そして母親の方も潰れます。

 

3 物理的に距離をとるー育児の距離感

うまくいっていない子供 と 親 の育児・関係性の再構築の方向としては

物理的に最適な距離をとる

 

 

これがかなり有効です。

 

ちなみにぼくはもう29歳なので、完全に「育児」の対象ではないのですが笑 成人後の親子関係の構築にも物理的に最適な距離を取ることが有用だと考えています。

ぼくは自分を育ててくれた母親を愛していますし、母親も愛してくれているとの実感はありますが

「気が全く合わない」ということは合意しています笑

 

ぼくは会社を辞めた後、家賃等の固定費用の節約のため実家に一旦住みましたが「破壊的に」母親と気が合わない。

そこで、話し合いの上

空家になっている祖母の家を管理しながらそこで生活しています。

 

めっちゃ快適!!

 

これが感想です!

気が合わない母親とでも久しぶりに会えばその時間を大切にしようと思います。
これが「良好な関係性の構築」の元にある思考です。

この記事がお役に立てば幸いです!!